第3回 定年女子フォーラムを開催しました(前半)

「定年」が気になり始めた私たちが不安なこと、考えたいこと、問題や課題…
人生100年時代とか言うけれど、頼れる人がいるわけでもなし。
仕事のこと、お金のこと、カラダのこと、もしものこと…、
私はこれからどうなるんだろう?

そんな風に思っている人たちとともに、ご一緒に話したり考えたする場を提供する定年女子トーク実行委員会。今回は、定年まで働き続けたお二人をゲストスピーカーにお迎えして「第3回定年女子フォーラム」を開催しました。

もともとは、昨秋に続いて、4月に開催の予定でしたが、コロナによる緊急事態宣言でそれどころではなくなってしまいました。でも、だからといって定年女子の周りの時間が止まるわけではありません。しかも私たちの働く環境がコロナで変わっていくので、これはやっぱり開催せねば!と、オンラインにて開催しました。

そうは言ってもオンラインに慣れている人ばかりではないし、参加者のネット環境もさまざまで不安を抱えながらの3時間でしたが、大きなトラブルもなく、無事終了しました。多くの方から「あっという間だった」という感想をいただき、ホッとしています。
ご参加の皆さん、どうもありがとうございました。

 

【概要】
日時:2019年10月19日(土)13:30~16:30
形式:オンライン
定年女子の課題 ~続ける?卒業する? これからの働き方を考える ~

ゲストスピーカー①本多祐子さん (定年まで勤めその後も勤務先で働き続けることを選択)
ゲストスピーカー②:小野田嘉子さん (定年を機に会社を卒業し、起業を選択)
ナビゲーター:石崎公子 (定年女子トーク実行委員会 委員長)

 

 
定年女子トーク実行委員会が今回のフォーラムで目指したのは、定年退職を機に自分の仕事、働き方をどうするかを考えるきっかけ、ヒントを提供すること。そこで、定年後に継続して働き続ける選択をした人と、「起業」という新しい挑戦を始める選択をした人をお招きし、お二人がどんなことをどんな風に考えてきたのかお話しいただき、参加者が考えを深める場にしました。
 

定年女子は人生の道のどのあたりにいるの?

そもそも私たち定年女子の人生がこれからいつまで続き、どれくらいの時間があるのか。
「定年」のまわりの社会環境がどうなっているのか。どう変化してきたのか。
そのベースとなる法律はどうなっているのか。
まずは委員長の石崎が、解説していきます。

参加者への「私の人生は何歳までなんだろう?」という問いには「100歳までいくかな?」という回答が。人生100年時代、働くかどうかは別にして、定年は人生のアガリではありません。


 
55歳以上のことを「高年齢者」と呼ぶ「高年齢者雇用安定法」。
そこで言われる「雇用確保措置」とは、雇用主は、①定年を廃止する、②定年を65歳まで引き上げる、③継続雇用制度を導入する、のいずれかの措置を取るとされていますが、企業の実態はほとんどが③。
一方で私たち定年女子も、この「定年」の機会は、会社を続ける?卒業する?と迷い、立ち止まって考える機会でもあることを、今一度確認しました。

ちなみに今年の春に可決した改正案は、70歳まで就労機会提供の努力義務化が明記されたけれど、これまでの「雇用確保」から「就労機会提供」に言葉が変わっていることも、これからの働き方を考える上では要チェックかもしれません。

定年を機に選択したお二人に聞いてみよう

選択で気になることというと、おカネだったり、健康問題だったり、時間だったりいろいろありますよね。昨秋のフォーラム(リポートページにリンク)では早期退職した人からお話を聞いたので、今回は定年まで勤め上げ、異なる選択をしたお二人をお招きしました。
 


 
★★★
ゲストスピーカー①本多祐子さん

当時、大卒の女性は就職が難しかった時代。自分でやりたい仕事を求めて今の会社を選び、高卒で専門職として入社。管理職ではないが20人くらいの後輩をまとめるリーダー的立場に。入社20年でグループ会社に管理職として出向(当時37歳。専門職なので出向どころか社内異動も珍しかった)。仕事は大変でいろいろ学んだ8年を経て元の会社に戻る。出向時の管理職を経験したことで、専門職のままだと仕事の幅が狭くなると感じ、試験を受けて総合職に転換(発令当時47歳。社内最年長の総合職転換)。53歳でもう一度出向。4年後に会社に戻ってきて3年経って定年を迎える。

現在、定年まで勤務していた会社での勤務を継続している。
 

ゲストスピーカー②小野田嘉子さん

短大卒業後、20歳でプラントエンジニアリング会社に入社し、一般職として40年勤めて定年を迎える。40年のうち25年間は海外営業本部で男性社員のアシスタント、執行役員秘書を務めながら、国際拠点に点在する会社紹介のプレゼンテーション資料をデータベース化し、資料作成、一元管理を担う。海外展示会のコーディネーターを務めた際に趣味の折り紙を客寄せ用に展示したところ、外国人から商品価値を評価され、今の起業のきっかけになる。

現在、糊もハサミも使わず紙でバラを折る職人技を伝授。自ら認定制度を確立し商標登録を取得し、全国のバラ折りニスト®達が社会貢献性の高い新しい仕事として活動できるよう、協会設立準備中。。会社は女性社員1割未満の男性社会で、58歳のときにやっと2年延長雇用が認められるようになったが、正社員と同じ勤務時間で給料は6割以下だが。立場は非正規。もはややりつくしたかなと思い退職を決意。ボランティアではなく好きで得意なことを仕事にして社会貢献的な活動がしたいと考え定年退職の翌年に起業。
★★★
 
委員長から、お二人にいくつか質問させてもらいました。

Q)定年して何年になりますか?

本多さん)1年
小野田さん)4年半
 

Q)辞めるか続けるか、いつぐらいから考えましたか?

本多さん)会社の制度が変わったタイミング。40代半ばのとき。まだ先のことでしたが最初に意識しました。その後、本格的に意識したのは50歳、会社でキャリア研修を受けたとき。55歳までに社内にいろいろある制度の中から自分がどうしていくのかを考えておきましょうね、という事前教育を受けたとき。ちょうどその頃、キャリアカウンセラーの学びをしていました。

小野田さん)会社は入社した時からフレックスタイム制。育児休業制度もあり、女性が働き続けるには恵まれていました。が、定年については全くの男性社会。女性には何の制度もありませんでした。
私は50歳のときから「10年前からのカウントダウン」と思っていた。資格をとって何かできることを固めていこう!と思い、大きな資格を取ったりもしたけど…。「健康であること、学んだり経験したことを社会還元すること」という父の言葉を思いだし、考えるように。自分はどれくらいの価値があるだろう?おカネをどうやって生み出す?と考え始め、事業にチャレンジしたいと思いました。自分自身が、孫と遊んだり旅行に行ったりという生活は望まなかったし、何かやりたいと思いました。
 

Q)選択する上で迷うことはありませんでしたか?

本多さん)ずっと迷っています。都度都度迷って決めていくのでいいと思っています。40代のときは、60歳以降の自分のイメージがつかない。私にできる仕事あるのかな?という程度。でも50歳になったら、会社にいろいろな制度があるので、自分にとってどれを選ぶのがいいんだろうと考えるようになりました。
55歳のとき、転身支援制度(会社に席を置きながら別の道を選ぶ)を選ぶことを決めて、準備もしましたが、そこで家族が病気になり、介護が始まりそう、会社にいた方がよさそうと考えるようになり、切り替えました。
ただ、そのころ考えるときはいつもおカネのことより働きがい、そして家族のことで考えていました。
55歳を過ぎてから、暮らしていけるだろうか、お金のこと、健康のことを考えるようになりました。

小野田さん)迷いました。たとえ収入が6割減になっても、それだけ自分で稼げるかどうか。会社にも愛着がありました。25年間やってきたプレゼンテーション資料のアップデートと一元管理は、部署が変わっても私についてきた仕事だったので、その仕事は自分だけ、社内でオンリーワン。海外展示会のコーディネータなど、ずっと表舞台でやらせてもらえると思っていたら、そうじゃなかったんです。会社は、一歩下がれ、後輩を育成にしろと。
 

Q)おカネのことはどんなふうに考えましたか?

本多さん)庭や家族がどうなっているか?持ち家かどうか?など、大きなおカネが影響すると思います。私が一番最初に考えたのは、高齢になったときに住む家を確保しなきゃというのがありました。
50歳くらいに、先輩が定年退職の1年後に保険と税金で大変だったという話を聞き、給与明細を見ただけではわからないこと、会社が自分のために払っているお金のことを気にし始め、勤務先独自の制度をもっと知ろうと思うようになりました。60歳になったらどれくらいおカネがもらえて、そこからどれくらい税金が引かれるのかなども考えるようになりました。
やや遅きに失した感がありますが、55歳から、放置していた401K(確定拠出年金)の運用をはじめ、そういうことも少しずつ勉強し始めました。

小野田さん)私は行き当たりばったり(笑)。一般職なので退職金は大したことありません。でも住む家はあります。家の購入には自分もお金を出したけれど、光熱費は夫が払ってくれます。今まで計算しないでやってきました。でもできるんだよ、ってところでしょうか。
 

Q)選択する上でカラダの不調や不安を考えることはありましたか? 

本多さん)40歳のときに椎間板ヘルニアになり、あぁカラダって弱っていくんだなと実感しました。50歳のときに足首を骨折したときには、いろんなものが経年劣化していくんだな、と感じました。
生命保険(医療保険)が80歳までだったので、これからどうするかなと考え始めましたた。それまで定期的に運動はしていなかったのですが、だんだん気にするようになりました。このコロナ禍も大きいですよね。また老いていく親を見ても考えます。医療保険の充実についても、考えるようになりました。

小野田さん)今、父が98歳。虚弱体質でしたが健康です。それを見て思うんですが、私も自分に合った健康法を実践中です。私は40代後半で椎間板ヘルニアになり、それを克服するために、自分のからだにインナーマッスルのコルセットをつけることを意識しました。アロマセラピストやヨガのインストラクターの勉強を始めたのもその頃です。自分なりに体によい食べ物を選び、肌の具合を見ながら腸の状況を知るようにもなり、自分の健康維持には凄く気をつけています。
そんなわけで、ガン保険ももう必要ないかなと思ってやめました。
 

Q)小野田さんは、定年後に会社から離れた喪失感のようなものを感じたと以前おっしゃっていましたよね?

小野田さん)いかに会社に守られていたか…。辞めてみると、社会から取り残されてる感じがしました。それが喪失感ですね。でもそんなこと言っていても仕方がないので、人脈作りに頑張りました。
 

Q)本多さんは会社を継続したことでつながりがキープされ、ありがたいこともありそうですね?

本多さん)そうなのかな? そういう認識があまりありません。給与や契約は変わりましたが、それ以外は今の職場では何も変わった感がないんです。やり甲斐も変わりません。むしろ担当業無が適切に整理され、負荷が少し減って、やりがいは残り、リモートワークが促進されたことで、やりたいことをやる時間ができるようになりました。ただ、この会社で別の職場に行ったら何か感じるかもしれません。誰とどういう環境でどういう仕事を任せてもらえるか、は大事なことだと思います。やりたい仕事をやれることも大事だけれど、もしも“期待されていない感”を感じると、つながり感の変化を感じるのかもしれませんね。
 

Q)迷っていた当時の自分に、今なんと声をかけてあげたいですか?
本多さん)選ばなかった道はなかった道。「61歳のあなたはそれなりに楽しくやってるよ。コロナ以外はね」と。

小野田さん)実は、私が辞める一つの大きな要因が上司と合わなくなっちゃったことがあるんです。当時はそれでちょっと諦めもあってね…。「しょうがないよね、やりつくしたからいいよね、よかったよ」と。
 
ありがとうございました。
 

後半に続く>>